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“荻野吟子記念館”は熊谷市俵瀬の”荻野吟子生誕之地史跡公園”に外装は長屋門を模して建てられ他ものです。荻野吟子生家の長屋門は群馬県千代田町赤岩の”光恩堂”に移築されています。このように、利根川を挟んで荻野吟子のゆかりの場所が随所に存在します。

 “荻野吟子記念館”は熊谷市俵瀬の生誕之地史跡公園に平成18年5月1日開館、生家の長屋門を模した和風建築です。記念館は荻野吟子女史の生家の長屋門を模した瓦葺屋根・漆喰一部下見板の和風建築で、部屋は展示室と休憩室に分かれ、展示室には女史の生涯を時代に合わせて説明した年表や資料が展示されています。

 "荻野吟子生誕之地"に隣接する史跡公園には、記念碑や銅像、四阿もあり吟子の面影を垣間見ることができます。明治18年政府公許の女性医師第1号となり、東京本郷に「産婦人科荻野医院」を開業。後に、キリスト教に入信し女性解放の先覚者として活躍、再婚して北海道に渡り瀬棚町で開業するなど、不屈の根性と愛を貫きました。

 熊谷市の妻沼にある、この展示館は、日本公許女性医師第1号である荻野吟子の生家である長屋門を模した建物で、埼玉県北部地域の文化・芸術の発信基地です。松竹特別公演『命燃えて・女医1号・荻野吟子』は、渡辺淳一の小説『花埋み』を基にし、1998年に新橋演舞場にて初公演された演劇作品。主演・三田佳子。


光恩寺長屋門

武蔵国幡羅郡俵瀬村の名主・荻野綾三郎邸から明治中期に光恩寺に移築された長屋門。荻野綾三郎の娘・荻野吟子は近代日本初の女医。その吟子生家の長屋門が、群馬県側の光恩寺に移築され現存しています。

葛和田の渡し

上杉謙信が船橋を架けて軍が渡河していたと伝わる葛和田の渡し(葛和田渡船/群馬県側の名称は赤岩渡船)。現在も利根川に残る貴重な県道扱いの渡し船として現役で活躍。船の料金は無料。

妻沼グライダー滑走場

 利根川河川敷に広がる、公益財団法人日本学生航空連盟の妻沼グライダー滑空場は、滑空時間・飛行回数ともに日本一を誇ります。年間を通じて東京六大学や早慶対抗戦、全国大会などの学生グライダー競技会が行われています。葛和田のレジャーのメッカです。


治承3年(1179) 斎藤別当実盛公は、武蔵国長井庄に大聖歓喜天を奉り、聖天宮を開いている。これが妻沼聖天山の始まりです。建久8年(1197)聖天宮の別当坊寺院として開創。歓喜院本坊の本堂の彫刻は、昭和の初めの頃の作であろうと推測されています。妻沼聖天山歓喜院本坊の切妻屋根破風に「鳳凰」、正面梁上に「双龍」がいます。鳳は風、龍は雲と雷を象徴しています。

「江戸繁盛記」などを記した、儒学者寺門静軒が、万延元年(1860)に妻沼仲宿に開いた塾。明治5年(1872)の学制発布まで続けられました。その後、建物の老朽化に伴い、建物は取り壊されましたが、平成5年(1993)に跡地前に石碑が建てられ、史跡に指定されました。両宜塾には、後に妻沼地方の文化の発展に尽くした有能な人材も多く在籍していました。日本で最初の女性医師、荻野吟子もその一人です。

 昭和6年、医師の坂田康太郎氏は新たな診療所を妻沼下町に「坂田医院旧診療所」開設。鉄筋コンクリート構造の平屋建て。玄関には外側へ突き出したポーチが造られ、外壁を覆うスクラッチタイル貼りが建物の顔。内装は診察室などその面影が残っている。部屋の上部は直線的なデザインで、温和な美が感じられ、アールデコ調の照明が印象的です。今や映画やドラマの撮影場所として注目を集めています。


 明治22年に妻沼町に誕生した井田友平氏。大正7年にはメヌマポマードの創製に成功し、ベタつかずサラッとした感触で、当時の若者の虜になったしろものです。国内シェア75%。昭和28年に初の民間テレビ局(現・日本テレビ)が開局すると、民放テレビコマーシャル第1号としてセイコーの時報が放映された。メヌマポマードは2番目の放送であった。

 熊谷市の妻沼。日本の女医第一号の荻野吟子女史の生誕地です。国道号沿いに位置する『道の駅めぬま』。ここの河津桜(吟子桜)が見頃を迎えようとしています。荻野吟子女史の誕生日月日頃から咲き始めますので当地では吟子桜と呼んでおります。道の駅めぬま女性と野菜をテーマに、妻沼の味を提供しています。敷地内の公園には400種株のバラが植えられています。

 大龍寺は熊谷市(旧妻沼町)葛和田の中心に位置する浄土宗寺院である。この地で北条察源が寺小屋を開設しており、荻野吟子が幼い頃に意欲的に基礎教育を受け、知識を飛躍的に向上させたといわれている。因みに、この寺の開山は徳川家康並びに秀忠公の帰依がことの外厚かった演蓮社智誉幡随意上人で、開基は成田氏の家臣島田采女正、慶長10年開創である。